Entries

知られざる殉教者 〜ペトロ岐部を描く

2008.12.28 知られざる殉教者 〜ペトロ岐部を描く

・ETV特集

長崎県五島列島 今もキリスト教カトリック信者が多く、キリスト教が盛んだ。島には51もの教会が点在している。

2008年11月24日 列福式が行われた。聖者の次に位置される福者に認められる式である。
カトリックの総本山であるバチカンからローマ教皇代理の枢機卿が日本の長崎にやってきた。

画家「松井守男」
フランスを中心に国際的に活躍している画家。
2008年2月、画家松井守男は初めて五島列島を訪れた。松井守男は五島列島にアトリエを構えている。
島のあちこちに刻み込まれている殉教の跡。松井さんは殉教の歴史に触れて衝撃を受けた。
日本で豊臣秀吉によって処刑された日本人最初の殉教者、「ヨハネ五島」。

「ヨハネ五頭像」
両手を縛られ十字架に。まだ若い。10代か?
一であっても衝撃を受ける「ヨハネ五頭像」。本人は、何でこんな目に遭わなければならないのだろう、と分からなかっただろう。
今も生きている。像の中で呼吸している人がいる。

松井さんはコルシカ島に住んでいる。2003年にレジョン・ドヌールを受章した。キリスト・マリア三部作を1998年に発表。慈愛に満ちた視線。
キリスト教徒でない松井さんが描いたこの絵は、ヨーロッパ各地を巡回して高い評価を得た。

2008年5月、五島にもアトリエを設けた松井さん。廃校になった小学校を利用した。

漁師の体をかりて絵を描き始めた。大の字に仰向けに寝る若い漁師。輪郭を細長い竹竿のような絵筆でなぞっていく松井さん。
殉教者たちの心境に近づこうとしている。裸の漁師。褌一つだ。途中でボカシが入る。
筋肉
日本の殉教者の生き様を描きたい。今、松井さんが最も強く惹かれる殉教者がいる。

ペトロ岐部 (1587〜1639)

キリスト教徒に対する弾圧が厳しい徳川家康の時代に日本を離れ、遙かローマを目指した若きキリスト教徒である。
旅は15年に及んだ。迫害によって日本を追放になる。長崎からマカオへ。マカオで1年の滞在の後、司祭になるため、カトリックの総本山であるローマを目指した。砂漠を徒歩で越え、聖地エルサレムへ。苦難の旅の果て、ローマにたどり着いた。そして晴れて司祭になった。
しかし、二年後、ローマでの栄光を捨てて日本の信者のもとに帰った。

待ち受けていたのは、拷問による処刑という運命だった。ペトロ岐部の物語は長い間、歴史の闇に埋もれていた。
松井さんは、それを絵にしようとした。世界に誇れる殉教者だ。時代は古いというが、彼の場合は決して古くはない。生き様が凄まじい。

ペトロ岐部は1587年、大分の国見で生まれた。国見には今でも岐部の末裔が住んでいる。
松井さんは、岐部家を訪れた。座敷の欄間には、大友家に使えたときの武器が飾ってあった。家紋が入った陣笠も掛けてあった。大友宗麟。大友宗麟との付き合いから影響で、キリスト教カトリックになった。

松井さんは、岐部家の人々の顔の中にペトロ岐部の面影を探す。
「歴史を描いている、という感じがする。」と、松井さん。

キリスト教はフランシスコ・ザビエルによって戦国時代の日本に伝えられた。キリスト教が入ってきた当時の日本の状況はどうだったか?

宣教師が仲介する南蛮貿易は莫大な利益を商人にはもたらした。鉄砲・大砲・弾薬などの軍事力は戦国大名を惹きつけた。多くの人々がこぞってキリスト教を信仰した。

一方、領民たちがキリスト教を信仰したのは、別の理由があった。
果てることのない戦乱で困窮した人たちに宣教師たちは救いの手を差し伸べた。

満部脩司教
最初は貿易とか知的好奇心とかいった形で、キリスト教が日本人の心を捉えたが、その後は孤児院とか乳児院とか病院とかいった社会的福祉事業が日本人の心を捉えた。

大分でも大友氏が戦に敗れ、領民は困窮していた。
そんな中で、ペトロ岐部は神学校に入学した。人々を救う司祭への道を目指した。
九州にただ一つあるカトリックの神学校。福岡県にある。聖スルピス大神学院。ペトロ岐部も400年前、進学校で学んだ。生涯、人生の伴侶を持たず、神に奉仕する道を選んだ若者たち。
岐部はこうした若者たちとともにラテン語やヨーロッパの哲学などを新たな学問の息吹に触れた。

松井さんはペトロ岐部のイメージを膨らませるために、この教会に来た。
岐部は19歳で神学校を卒業した。司祭を手伝う「同宿」として、教会で働き始めた。
ミサを行う司祭の横で貧しい人の心をいやす姿をいつも見ていた。自分のためではなく誰か他の人のために生きる人、司祭になりたいと思った。そこで8年間使えた。

荘厳な教会。岐部のイメージが湧いてきた。

ペトロ岐部のイメージと重なりそうな神学校の学生をモデルにして絵を描き始めた。28歳の若者。若者にインタビューしながら描く。
ペトロ岐部をどう思うか?彼の強烈な熱意に対してあこがれを抱く。

松井守男
人間は弱いものだ。使命を見つけたときから強くなる。僕も自殺を考えたことがある。

松井守男は1967年、24歳の時、国費留学生としてフランスに渡った。美術学校中退した後、独学で絵を描いた。不遇が続いた43歳のとき、松井の作品をフランスで認められた。その絵のタイトルは、なんど「遺言」。
人生最後の作品にしようと思っていた絵だった。

社会もひどい、日本もひどい、フランスもひどい、と他人のせいにしていた。人間不信に陥った。「人」の字を何回も描く積み重ねた。その中から「光」が出てきた。「人」の字を書き続けるのは、一種の受難である。
ペトロ岐部の人生も受難の連続だった。
彼が生まれた時代はキリスト教弾圧の時代だった。彼が生まれた年は、豊臣秀吉によりバテレン追放令が出された1587年だった。

バテレン追放令、「日本は神の国デアリ云々」
縁教師の背後にはポルトガルの脅威を感じていた。その脅威から逃れるため、というのがバテレン追放令の発布の理由である。為政者と日本人の疑惑を増幅させた。
住民の90%がキリスト公となっていた長崎。当時は、宣教師にも不穏な動きが出ていた。武器・弾薬を港にいてて配置して、長崎を軍事化させるべきだ、と言う考えと動き。

そして悲劇が起きた。
長崎で26人のキリスト教徒が処刑された棒につるされる処刑される人。
1596年長く激しい弾圧の始まりだった。

1614年、ペトロ岐部にも国外追放の命が下った。29歳のときだった。

豊臣秀吉や徳川幕府による禁教令で26万人のキリスト教徒は激減した。しかし、密かに信仰している人たちがいた。
「カクレキリシタン」である。

カクレキリシタンは表向きは仏教徒であり、4年に1度は踏絵も踏んだ。

家の奥の難度にはキリストやマリアを飾り、拝んでいた。仏具のように描いたせい母子像の絵を拝んだ。
長崎県生月島。今でもカクレキリシタンの習慣が残る。仏壇で拝んだ後、納戸神にも拝んだ。毎朝40分、納戸神を。
オラショと呼ばれるお経のような経文。島の高台に400年前にキリスト教を布教した日本人のリーダーが奉られている。禁教令が解かれた明治以降も、カクレキリシタンの習慣が残った。

ガスパル西玄可。(1556〜1609)
島で最初の殉教者となる。信者の中心的な存在だった。禁教令が出されたときでも布教した。

追放されたペトロ岐部は、1615年、船でマカオへ行った。マカオから司祭を目指す仲間を募って、カトリックの総本山であるローマを目指した。船の雑役婦となって船に乗り込んだ。

仲間と別れて、なぜか喜望峰周りでなく、砂漠を行く道を選んだ。

作家、三浦暁子(あきこ)さん。同じカトリック教徒として、なぜ、厳しい道を選んだのか?みんなと一緒に行けばいいのに。船は好きだったはずなのに。なぜ一人で行ったのか?
灼熱の砂漠。過酷な旅。

聖地エルサレム。イエス・キリスト受難の地とsて多くの巡礼者を集めている。
ペトロ岐部は聖地エルサレムの地を踏んだはじめての日本人となった。彼はイエスが生きた場所を訪れたかったのだ。
日本を出て5年。ついにローマに着いた。バチカンは彼を受け入れた。異例の早さで岐部は司祭の資格を得た。

ペトロ岐部の自筆の身上書がある。33歳。召命、同胞の救い。几帳面な性格の字。

ローマでの栄達の道を捨てて、同胞が待つ日本へ帰る決意をした。日本で同胞が苦しんでいるのは分かっていた。

愛するとは、見捨てないこと。(三浦暁子)

1623年日本へ向かって出港した。

日本では三代徳川将軍家光がさらに弾圧を厳しくしていた。日本では活動は狭められていた。帰国して9年後には東北の水沢に彼はいた。

水沢も迫害が強く、きびしく、司祭が来るのを人々は待っていた。隠れて活動していた。水沢は当時の宣教師がアラビアの砂漠のようだと言ったほど痩せた土地だった。

幕府に捉えられたペトロ岐部は拷問にかけられた。汚物の中に逆さ吊りでつるされた。逆さ吊りの刑で処刑された。ペトロ岐部の処刑は幕府の記録に残されている。逆さ吊りの刑で処刑された。

ペトロ岐部の生涯を描いた絵巻。松井守男

2008年11月24日 列福式 長崎 ローマ・バチカン

長崎で3万人のキリスト島信者が集って行われた。
ペトロ岐部以下の殉教者を福者にする列福式が行われた。バチカンから教皇の代理がやってきた。枢機卿。
大浦天主堂での礼拝。

宗教と言うよりもヒューマニズム
試練を受ける、前進で試練を受ける。


**********************************************************************************

バチカン ローマ教皇代理 赤い帽子 枢機卿 赤い法衣

逆さ吊り 処刑 愛 青い海 点在する島 五島列島

ヨハネ五島の貼り付けの像 五島久賀島 松井守男のアトリエ

長く細い竹竿の先に墨の絵筆 岐部家にあるろうそくと聖母子像

ザビエルの絵 宣教師が布教している絵(安土桃山時代か?)

神学校の学生の白い服が赤い礼拝堂小野中に引き立ち、うち上がる。

バテレン追放令    1587年
日本26聖人の殉教 1596年
納戸神のはだけた胸の聖母子像
本当に納戸にあった。

ガスパル西玄可のレリーフ(山の上)
ペトロ岐部の身上書 几帳面なきれいな文字
岩手 水沢の林の中を歩く三浦暁子さん。

田んぼの中 江戸時代初めの教会の後






この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)
http://katobuntaro.blog18.fc2.com/tb.php/196-b38ed7dd

0件のトラックバック

0件のコメント

コメントの投稿

投稿フォーム
投稿した内容は管理者にだけ閲覧出来ます

Appendix

プロフィール

Author:加藤文太郎
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

カテゴリー

ブログ内検索

By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる