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No.3061 小・中学校という場所(H30.11.12)

◯小学校区・中学校区というのは地域に密着しているものであり、特に地域コミュニティにはなくてはならないものである。

◯時間の共有を通じて、子供時代の「物語」が育まれる空間である。

◯学校は地域を支える大切な拠点である。

◯以前に、信州のある集落を訪れた際、小学校が統合されて学区が大きくなる前の世代と後の世代とでは、近隣集落との連携のしやすさが違うという話を聞いた。子供時代の「物語」の共有は、大人になってからの関係をも規定するのだろう。

◯さらに、学校という場所で育まれる「物語」の共有は、子供だけに留まらない。地区を挙げての運動会や文化祭が開催されるなど、地域文化の創造の拠点としての機能を持ったり、大人が子供を見守る「場」となることもある。

◯学校が教育施設であると同時に地域の「物語」を育くみ、共有する拠点であるとすれば、その再編・統廃合についても、複合的な視点からの検討が必要となる。

□単に「費用対効果」の問題として考えてならない。
□また、大人数の方が教育的に少人数よりも優れている、と考えてはならない。


町村週報3061



夢のミレー傑作10選

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日曜美術館 夢のミレー傑作10選  2010年11月7日放送
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パリから南へ60km。フランス、バルビゾン村。ミレーが暮らした村。ここにアトリエを構え、農民画を400点を描いた。

1.落穂拾い  1857
刈り入れを終えた麦畑で、音簿を拾う3人の女たち。最も貧しい農民たちがその日の糧を得るために落穂を一つずつ拾っている。
対照的に画面の奥には、山と積まれた麦の束や、それを運ぶ人々のにぎやかな豊穣の情景が描かれている。
当時、落穂拾いは貧しい人々に許されていた農村の習慣だった。ミレーは、貧しくもつましい農民を中心に据えて描き出した。ミレーは、農民の姿をどのようにとらえ描写したのか?

青森県のリンゴ農家、木村秋則さん。農薬も肥料も使わないリンゴ栽培。
木村さんがミレーの絵を見たのは中学生のころ。中学生のころ、それ以来、ミレーに強く惹かれてきた。働く農民の姿。

2011.02.08 第1回 芦雪 はみ出し・飛び出し

2011.02.08 第1回 芦雪 はみ出し・飛び出し

・プレミアム8 大胆不敵な水墨画

プレミアム8 <文化・芸術> 大胆不敵な水墨画 第1回 芦雪 はみ出し・飛び出し
平成23年2月8日放送


長澤芦雪(1754~1799)

見る者を驚かせるのが大好きな芦雪。
枠をはみ出さんばかりの巨大な牛。
前代未聞の長ミクロな絵。衝撃だった。2010年(平成22年)に見つかった長澤芦節の絵。
画面は僅か3cm四方。見る者の度肝を抜く芦雪は、どんな人間だったのか。

手掛かりは南紀だった。
「虎図」。何時、襖から飛び出してくるのか思わず身構えてしまう。筆の勢いに一気に描きあげた。紙を立てて描いたという。筋肉の隆起。

若いころから京都で絵を学んでいた。
円山応挙を師と仰いだ。千人の弟子。若き芦雪のエピソード。師がいるうちは氷の中の魚。芦雪の印が魚だ。
まじめな応挙。一方、芦雪は多種多芸。破天荒な男だった。真に迫ったクジャクの写生。
応挙の中でも、一二を争う弟子になった芦雪。師に近付くのがやっとだった。

南紀の芦雪。
本州最南端の町。南紀、串本。
無量寺で制作を続けた。隣町から水を持ってきた。水に験を担いだ。

それまでとは打って変わったエネルギッシュな作品を描いていった。
迫力満点の「龍図」。
嵐の中、恐ろしい龍。見る者に迫ってくる。髭がクルリっと曲がって跳ねている。力強い龍。

天明の大飢饉。目の前で起こっている現実を有りの儘に描いていた。骨と皮の姿になっても生きることを止めない牛。生命の力強さと美しさ。

うっかり紙の上に墨を溢してしまった小僧。それを一気に描き上げてしまった。寛ぐ黒い猿。

顕微鏡と、蚤と芦雪。

芦雪が南紀で描いた屏風。画面の下半分が真っ黒だ。なんとクジラの背中。小さな船。見る人々の視覚を解放させる。
画面からはみ出さんばかりの像と牛。巨大なスケール。技術があるから色彩は関係ない。
串本、無量寺の芦雪。虎と龍の襖。

空間の風を感じる。
空間全体を感じる。
空間を描いている。

龍の隣は、可愛らしい子供達の絵。子供達の声が聞こえる。天井から鼠が出てくる。居眠りしている友達に落書き。手のひらに墨を塗ってスタンプにしている子供。

デジタル画像にして襖にはめ込んでいる。
芦雪が泊めてもらったお礼に絵を残した。
「月竹童子図」
月に向かってかけだしている表情が滑稽だ。
南紀。岩だらけの海。

熊野古道。草堂寺

余白がたっぷりある絵。リラックスした虎だ。虎と一緒に外を見ている感じだ。余白も絵だ。虎とのツーショットだ。
粋、洒脱がうらやましい。

芦雪は高名な絵師として認められた。売りさばいた絵の金を一晩で飲み尽くして、絵師をして充実した日々を送っていた。

しかし、天明の大火。子供達の死。娘と息子のの相次いだ死。父親の死。
絵師としての極みと、心を締め付ける悲しみ。

「海浜奇勝図屏風」。中国の風景か。岩には巨大なエネルギーが渦巻いている。
筆の跡からは叩きつけるような激しい感情。
海に浮かぶ船は、自然の前には余りにもちっぽけだ。右隻には対照的に穏やかな絵。
<家族>

「魚」の印が欠ける。月に強く惹かれていく。晩年、繰り返し満月を描く。柔らかで朧な満月。それまでにない「しん」とした空気。
その後、突然、40代半ばで死亡。

「月夜山水図」
靄なのか雲なのか。
芦雪、最後の月は淡い光を放っていた。透けている松。

水墨画では、雪とは描かないこと。
「無限の光」


2011.02.08









Tv57 グロスモーン国立公園

2011.01.08 Tv57 グロスモーン国立公園

・世界遺産招待状

世界遺産への招待状 Tv57 グロスモーン国立公園 カナダ 平成23年1月8日放送


マントル 蛇紋岩 プレートの衝突でマントルが隆起して地表に。
国立公園になり、国の政策で移住させられた住民。驚くほどの金を積まれた。

漁業 鱈 タラ ロブスター
人口の激減 ゴミ収集などの公的サービスを住民自らが行う。


2011.01.08



2010.11.28 “安売り”は何をもたらすのか?

2010.11.28 “安売り”は何をもたらすのか?

・A to Z

追跡 A to Z
“安売り”は何をもたらすのか? 2009年11月28日 放送


「血を流さないだけで、殺し合いと一緒」


安売り競争に巻き込まれて倒産した納豆会社の社員。安売りの影で雇用や賃金が脅かされている。
なぜ、メーカーはPB(プライベートブランド)を請け負うのか?
製麺工場。国産麺が売れなくなった。

借金をして工場を新設した。人件費は削減。機械化で無人となって、人件費は3分の2。
多くの社員は、年収300万円台。大量生産して一年間、稼働するしかない。

先月PBを始めたばかりという、大手ディスカウントストア。ドリップコーヒーのPBを開発の真っ最中。
市場の最低価格は、ひとパックおよそ18円。担当者は、それを下回る価格で勝負するいう。

担当者はまず、工場の稼働率をあげたいと考えているメーカーを徹底的にリサーチ。
メーカーにとって、1年中生産ラインを動かし、安定した売り上げを確保するのは至上命題。
浮上したのが、広島県にある従業員80人のメーカー。新しい設備を導入する予定で、仕事を求めていた。
広島の工場で行われた交渉。

「ひとパックあたりのコーヒーの量を、もう1グラム増やしてほしい」-わずか1グラムでも、味は大きく変わり、消費者にアピールできる。
一方、メーカーにとっては、1グラムの増量で、ひとパックあたり数十銭の利益の減。メーカーは即答を避けた。
交渉が動いたのは、担当者が長期間の取り引きをにおわせた時。メーカーは決断。1グラムというのは、企業努力できる範囲。
こうして、価格据え置きのまま1グラム増量することが決まった。急成長するPB市場。その裏では、生き残りをかけたグラム単位、銭単位の攻防が行われていた。

激化する一方の安売り競争。その陰で、雇用や賃金が脅かされている。
8月、大手納豆メーカーが経営破綻した。業績が低迷していたところに、PBの赤字が追い打ちをかけたのだ。

職を失った人は100人。このメーカーに22年間勤めた男性は、3人の子どもを抱え、失業保険の給付を待っていた。
「子どもができたばかりの人とか、家を建てたばかりの人とか、いろんな人がいました。何でこうなったのかな」。

最近の安売り競争は、企業努力を遙かに超えている、こう憤るのは、PBを大規模に請け負う乾麺メーカーの社長。
このメーカーはこれまでも、徹底した効率化を図ってきた。3年前に新工場を建設し、生産量を1.5倍に増やす一方、機械化。

さらに、賃金カットを進め、多くの社員の年収を、300万円台に抑えている。
ところが今年になって、ある大手小売りの格安PBを請け負ったことで、大赤字を被った。

このメーカーは、1袋およそ100円でそうめんを納め、数円の利益を得るはずだった。
ところが小売り側は、安売り競争の中で販売価格を40円値下げしたとして、利益が減った分を補填するよう求めてきたのだ。
このメーカーは1袋につき、10円を「販売促進費」などの名目で、支払わざるを得なかった。
こうした利益補填は、この業界では古くから行われてい。その額は、半年間で397万円。

安売りで利益が減った分を、小売り側は、メーカーに請求してきた。これで赤字となった。従来の商習慣だった。

夫の給料は減収。妻の給料も300万円台。節約は日用品と食費、家族7人で、月5万円程度に抑えている。
週末に家族でまとめ買い。プライベートブランドの食品を買う。
住宅ローンと教育費だ。安売り工場に勤める人が安売り商品を求める。負の連鎖だ。
「自分でも矛盾している。」悔しいと思う。

労働の価値。
人間としての尊厳までも脅かされている。
希望のあるコストカット。それとは違う暗い世界。物価は上がっているが、所得は下がっている。労働の価値が下がっていく。
高齢化により、消費が低下。
新しい投資ができなくなり、物作りへの意欲がなくなっていく。
悪循環から抜け出そうとしている企業。

ソースメーカー。
年間12億円の売上。豊富な品揃え。大学いものタレ。400種類の商品の市場は小さいが、No1だ。

格安PB商品の製造の陰で、商品開発力が低下した。PBでは、売上は伸ばすことはできても、利益が出なかった。
7年は持つが、それ以上は続かないと会計士に言われた。
格安PB商品から脱却した。営業も頑張っている。焼きそば用の2つのソース。


2010.11.28









第1回 3教授が語る音楽の喜び

2010.10.24 第1回 3教授が語る音楽の喜び

・スコラ

白熱教室JAPAN
Schola

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スコラ
坂本龍一 音楽の学校 特別教室 第1回 3教授が語る音楽の喜び

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坂本龍一が音楽の新たなスタンダードをつくる試み、スコラ。
2010年7月。京都造形芸術大学。京都芸術劇場春秋講座。

3教授が語る音楽の喜び。

坂本龍一
浅田 彰
小沼純一

テーマ:
1.スコラ流、音楽の楽しみ方
2.“楽聖”ベートーベン

スコラ。英語ではスクール。
古典音楽では、
J・S・バッハ(1685~1750(
L・W・ベートーベン(1770~1827)

古典主義。これが音楽だ、という規範。
スコラ。
カノン=規範。これが権威だ。

権威があった。若者にとって権威があるということは、ありがたいことで、簡単に権威に反抗していればよかった。権威がなければ反抗することもない。判断基準がない。何に反抗したらいいか分からない。混沌しかない。暴力に逃れるか?
権威がないのは良いのか悪いのか分からない。権威を壊したくて生きてきたのに壊したら困ってしまった。

今更ながら坂本龍一がパッハをやる。ベートーベンをやるというのに意味がある。
あいつはああ言っていた。こいつはこう言っていた、ということを知っていてほしい。ここからいろいろな考えの出発させるのは、意味があると思う。

芸術大学に行く学生なんか、授業にこなかった。自分の考える場所さえあればよくて、授業になんかどうでもよかった。知識を得る場所というよりも、面白い人と出会う場所で、交流して相互に刺激を与え合う場所だった。

スコラという新しい学校と謳ったからには、勉強してみようということになった。まじめに音楽とか、音楽史なんて勉強したことはなかった。こんなに勉強したのは10代以来だ。
1回は、そういう場を制度として作り直しても良いと思った。
坂本さんなんかは、音楽史なんて馬鹿にして勉強しなかったが、今になって勉強してみると、案外面白いものなのだ。勉強って案外面白いものなんですね。
そもそも、なぜ音楽を必要としているのか?あるいは必要としていないのか?
音楽が我々を見ている。

音楽は時間の流れだ。声明と同じだ。終わると永遠に戻ってこない。時間芸術。一瞬しかない。その一瞬は永遠である。
死んだ人の作品を聞くことが多い。使者との対話だ。逆説で、死んだ人が生きている。死んだからこそ聞いて、死んだからこそ対話が出来る。

記譜法の発達だが、記譜法が確立されたのは意外と最近で、18世紀半ばのことだ。楽譜は状況証拠だ。本当のところは分からない。しかし、それが研究として興味がある。
音で考えるということは、昔の人がどういうふうに考えていたのか、ということを追うことが出来る。知的な喜びと感覚的な喜びもある。知的な刺激である。

音楽を創る側の人たちは、結構、凝らして創っている。ベースラインとかリズムとか。そういうところを聞いて分かってほしい、というところがある。BGM的に聞くのと、真剣に分析して聞くのとでは、大きな違いがある。快楽的に聞くのではなく、真剣に聞くとおいしさが倍増する。

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3教授が語る“楽聖”ベートーベン

音楽の新たなスタンダードを創る試み、スコラ。

今日の特別講座。3人が題材として選んだのがベートーベン。
“楽聖”ベートーベン。(1770~1827)

古典派(音楽)
18世紀後半から19世紀初頭にかけての西洋音楽の様式。ベートーベンは、古典主義音楽作曲家の一人だった。
何を古典派というか。有名なところでは、ハイドン、モーツァルト。その前にバロック期というのがあって、バロック音楽。16世紀末から18世紀中頃までの西洋音楽の様式。
バロックといっても前期と後期では様式は大きく変わっている。
イタリア、ドイツ、フランスなど、国の事情によっても大きく違う。
その中で、ベートーベンをどう捉えるか?
ベートーベンは西洋音楽のクラシックの代表だった。
ベートーベンのピアノ・ソナタは、新約聖書といわれた。バッハが作曲した平均率クラーヴィーア曲集は、音楽の旧約聖書を呼ばれている。
“楽聖”ベートーベンが作曲したピアノ・ソナタ曲集は、音楽の新約聖書と呼ばれている。
“楽聖”ベートーベンという偶像は壊れた。しかし、ベートーベンという偶像が壊れたときに、すごく新鮮なベートーベン像が再発見された。素敵だな、と思う。

ベートーベンが生まれたのは、1770年。
当時のヨーロッパは支配階級である貴族の文化が華開いていた。モーツァルトなどが活躍した時代だった。流行していたのは警戒で優美な音楽だった。
しかし、そんな貴族文化の隆盛は長く続かなかった。
フランス革命が1789年に勃発。

<ラ・マルセイエーズ>

1789年。フランス革命によって、それまでの絶対王政が終わりを告げ、市民が主役となる近代市民社会が誕生した。
ベートーベンは、そうした激動の時代に右作曲家としてのキャリアをスタートした。時代の変革に呼応した新たな音楽を生みだした。

ベートーベン(1770~1827)
ピアノの振動といわれた。父親は教育熱心で、モーツァルトのようにしたいと考えていた。
ハイドン、モーツァルトとは明らかに違った音楽だ。響き方が全然違う。
労働者の音楽だ。力強い筋肉隆々だ。モーツァルトが活躍した頃の音楽は、流れるような流麗な音楽だ。
ベートーベンの音楽は無骨だ。

<ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 作品53 「ワルトシュタイン」>
<ソナタとは、古典派以降の音楽の形式のジャンルの一つで、2つのテーマ(主題)を中心に展開する形式の音楽>

ハイドンにこの音楽を持って行ったら、「君、これ、伴奏だろう。テーマはどうしたの?と、きっといわれる。

ベートーベンは、テーを強調する。最初からけんか腰だ。
最期のフェルマータは、ベートーベンは長い、しつこい。ここまでやるか?というくらいしつこい。
ベートーベンの音楽は、コンストラクションだ。構成、構築だ。ハイドンやモーツァルトでは、余り見えてこない。
ベートーベンは、それがはっきりしている。
ベートーベンは、流れるメロディーも書くことが出来るし、実際書いている。
それにもかかわらず、構築してシンフォニーを創っている。動機音楽。動機(モチーフ)の積み重ねだ。レンガ職人のレンガ積みだ。
<ベートーベン 交響曲 第5番 ハ短調 作品67>
ずっとテーマを積み重ねている。最初から最後まで、モチーフの積み重ねだ。
まさしく労働者の音楽だ。汗が見える。
ベートーベン以前の音楽は楽節を重視していた。

<モーツァルト 交響曲 第40番 ト短調> 交響曲は20小節のメロディーのまとまりが一つの単位だった。
第5番で、大きな革新をした。動機、モチーフ。動機の積み重ねで大構築をした。大伽藍が出来上がった。
モーツァルトも第40番ト短調交響曲のように、動機で構成しているものもあった。

基本的にはメロディーがどんどん出てきて、現れては消えている。あれは消費の音楽だ。消えていく。
ベートーベンは生産と構築。消費ではない。簡単なモチーフをどんどん積み重ねていった。大伽藍を作り上げた。

イギリスでの産業革命が始まっていた。
産業革命。18世紀から19世紀にかけて起こった工場制機械工業の導入による産業の変革を、それに伴う社会の構造変革。
新しかった当時のベートーベン。

ベートーベンは「革命と戦争」の時代を生きた。「労働と闘争」の世紀に関係して生きていた。その最初の人だ。激動の時代を生きたベートーベン。

彼が生まれた1770年前後には、後の時代に大きな影響を及ぼした人物が生まれた。

ヘーゲル   (1770~1831)
ナポレオン  (1769~1821)
ベートーベン(1770~1827)

ベートーベンは、彼らと呼応して生きた。
18歳でバスティーユ、21歳で第1共和制。
第2共和制(1792年~1804年に、フランスで始めて行われて、王様が存在しない共和主義の政治形態。)

革命の混乱の中から、ナポレオンが出てきて、片田舎から出てきた、無名の新人将校。

「自由・平等・博愛」(フランス革命が掲げた理念)
これをヨーロッパで広げようとした。運動がフランスに起こって、ナポレオンは、これをヨーロッパ中に広めようとした。
その革命がヨーロッパ中に起こって欲しいと思っている人もいた。l
政治的内容が大きな影響を与えた。

ナポレオンは、政治で主張を実現しようとしていた。
ヘーゲルは、哲学でこれを実現しようとした。
ベートーベンは、音楽のナポレオンであり、ヘーゲルであった。

闘争、労働、頑張る。
国難を乗り越えた先に明るい未来があるkとを目指したが、英雄だったナポレオンは、皇帝になってしまった。それをベートーベンは怒った。
英雄を音楽で理念化して現した。
ナポレオンが皇帝に就いていた、在位の期間、1804~1814。
ベートーベンの傑作の森と一致している。

一方、持病の難聴で晩年の10年は、ほとんど聞こえなかった。
1815年、ナポレオンはワーテルローの戦いで、イギリス・プロイセン連合軍に敗れ、セントヘレナに流された。
そのとき、ちょうどベートーベンは、音のない世界に閉じ込められていた。ナポレオンの流刑によって情報と閉ざされた世界にいたことと、と、ベートーベンの音のない世界にいたこととは、呼応している。

音のない世界。島流しにあったナポレオン。
その音のない世界と、情報から隔絶された世界にいることによって、かえってそこで、深い世界に入った。

<ピアノ・ソナタ 第32番 ハ長調 作品111 第2楽章>

ベートーベンの、ピアノ・ソナタ 第30・31・32番は、どれも素晴らしい。

31番のフーガは素晴らしい。単純なのがいい。
31番のフーガの前のメランコリックなのもすごい。

<ベートーベン ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110 第3楽章>
メランコリックな音楽。

晴朗で晴れ渡った世界。シンプルだけど深い。
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13 『悲愴』 第2楽章」
交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」

こちら側にある世界を付き抜けた、晴朗な世界に辿り着いたベートーベン。
クロード・ドビュッシー(フランス 1862~1918)
第9交響曲の第2楽章を「完璧な音楽だ」といった。

第9はヘーゲル的弁証法的だ。

ヘーゲルの弁証法
あるテーゼは、それを否定するアンチテーゼを含む。両者の対立が新たなテーゼを生む。kの連続により、思考を高める、という哲学概念。

第9交響曲では、自己パロディをしながら、これではない、これではない、と続いていく。

最初は、けんか腰の音楽だ。
テーマ、否定、次のテーマ、否定。
当時としては、革命的な言葉だった。この後、盛り上がって天上の世界に到達した。
さらにその後、トルコマーチになって、それから民衆的エネルギーを吸収して、最期に統合する。
「『すごいよね。』と思うと同時に『熱いよね。』と思う。悪くいうと、『暑苦しい』となる。これが、一万人の第9なんてやられると、『ちょっと、やだな』となる。」

しかし、やりたくなる素地を持っている、含んでいる。

1960年代から70年代は、そういうところを嫌っていた。いやだったよね。僕らの世代だ。
ベートーベンは聞かなかったですよね。
嫌だったですよね、ベートーベンは。

人間臭くて、ドラマティックで、ゴールに勝利があって、自由に到達するという、アホみたいに熱い思っていて、その上で曲を書いている人間っていない。
ベートーベンは、運命や第9のように緻密で構築性のあるものと同時に天上を突き抜けた晴朗なるものが同居している。
人、作曲家の多面性。

弦楽四重奏曲。バンドのようだ。いっせいのせっ!!の雰囲気がある。
親しめるベートーベンを聴いてほしい。
風景を描くように描写しているのではなく、風景を抽象化する、かえって言葉や情景をかえって、そこから離れていった。
中世は、言葉だけ。ルネサンスで言葉から楽器に移っていった。バロックになって楽器だけで良いのでは、ということになった。

ハイドンで器楽が完成された。彼は器楽を完成した。理念化と抽象だ。純粋音楽だ。情景と言葉を突き抜けている。音による、音自体の表現。理念や情念を描写するというのではなく、直接音楽で表現する。
「純粋音楽」だ。

京都大学、岡田暁生。
ベートーベンはオペラが下手だったといわれているが、ベートーベンの織部等は純粋な音で創るドラマだった。言葉を超えていた。ドラマでなく、純粋思考だった。
精神の純粋性は、どんなところでも、どんなものでも、それなりに合う。映画音楽にも合う。演劇にも合う。

頑張るベートーベン。
ベートーベンの音楽はおやじの音楽だ。頑張れば救われる。喧嘩をしても和解できる。
ギャグにすると、忘年会で若い社員を捕まえてけんか腰で説教するオヤジの音楽だ。

高度成長期は合っていた。頑張れば報われたの時代だ。
坂本龍一や浅田彰等が壊したベートーベン。

1980年代では、モーツァルトだった。
クラシックの代名詞はベートーベンからモーツァルトに移った。

ポスト・モダン。ポストモダン。近代合理主義否定の運動。

坂本さんや浅田さんが、ベートーベンを若い人に話をしているのは、感銘深いところがある。
坂本龍一がベートーベンをしっかり弾けるというのもすごい。ベートーベンのベースが入っている。

「版張れば報われる。」という。僕らは斜に構えているが、あの理念は忘れたくはない。鬱陶しい感じ、説教臭い、汗臭い、労働者の匂い、オヤジ臭い。いい加減黙っていてくれ。という想い。それを突き抜けたい。

1789年フランス革命。1989年、200年経って逆向きの変化。ベルリンの壁が壊れたときに、バーンスタインがベルリンに行って、ベルリンの壁で、ベートーベンの第9交響曲をやっている。
そういう場でやるのは、ベートーベンしかないのではないか?ジャズではないし、ある種のロックは可能性があるかも知らないけれど、やっぱりシンフォニーだろう。ベートーベンが適当なのではないか?

我々はベートーベンなんかじゃないよ。エリック・サティとか、ブライアン・イーノの世代だった。
しかし、ベートーベンはやっぱり医大だったということは認めざるをえない、という、ある種の敗北宣言でもある。

40年ぶりに見てみるとベートーベンも意外と面白い。現代と過去が並列している。


2010.10.24








夢のブリューゲル 傑作10選

2010.10.24 夢のブリューゲル 傑作10選

・日曜美術館

日曜美術館 夢のブリューゲル 傑作10選  平成22年10月24日放送


2010年9月、スペインで、ある画家の新たな絵が発見された。
描かれたのはワインをがぶ飲み、奪い合いをする民衆の姿。16世紀、ヨーロッパのフランドルの巨匠、ブリューゲルが描いたもので、50人もの人々が折重なる大迫力の群衆表現。世界でおよそ40点しかない。
ブリューゲルの新発見に美術界は騒然となった。
ブリューゲルが描いたのは、怪物が乱舞する奇抜なきまわりない世界。そうかと思えば、遊びに熱中する子供たち。
さらには、骸骨の大群まで。変幻自在にあらゆるものを描いた。

今日、ブリューゲルの空前絶後のワンダーランドを10の傑作で一挙に届ける。

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日曜美術館
夢のブリューゲル 傑作10選  平成22年10月24日放送

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16世紀にフランドル地方で活躍したブリューゲル。

<ピーテル・ブリューゲル>

「聖マルティン祭のワイン」(修復中)
放埓に酒を飲んでいる光景で、細部が精緻で申し分がない。400年以上、貴族の家に眠っていて、プラド美術館で鑑定したところ、本物に間違いないと分かった。

傑作10選。
ウィーン美術史美術館。15世紀~20世紀にかけて、ヨーロッパに君臨したハプスブルク家の歴代のコレクションがおさめられている。
「ブリューゲルの間」11点を納めている。


傑作選1.「バベルの塔」
一つ目の傑作。
旧約聖書の記述を題材にした「バベルの塔」(1563)
最も知られた作品だ。古代バビロニアの王が天まで届く塔を作らせた場面。
天空にそびえる唐の全貌を鳥の目の高さから描いている。
大勢の人々が働いている。人間のおおきさは1cmほどしかない。しかし、一人一人の人間の息遣いが生き生きと伝わってくる。
ブリューゲルは徹底した細部の積み重ねで、塔の建築を描いた。

巻き上げ機
構築物
建築物
足場

すべてをよくわかって書いている。レンガを船着場から引き揚げている。
当時の最新鋭のクレーン。人が中に入っている最上階は雲を突き抜けている。ロバが資材を運び上げている。
視察に訪れた王。表情はきつい。神の怒りにより、人々は共通の言葉を失い、塔は完成しなかった。人間のおごり。
16世紀、現在のベルギーがフランドルと呼ばれていた時代、ブリューゲルはフランドルで数多くの作品を描いた。
どこで生まれ、どこで絵を学んだのか分からない。しかし、突然、現れ、傑作を描き始めた。

<ピーテル・ブリューゲル>

ヨーロッパに古くから伝わる寓話をえがいた傑作。
聖職者と農夫と兵士。


傑作選2.「怠け者の天国」
当時の代表的な職業。背中にナイフを刺した豚。ナイフが突き刺さった二本足の卵。たらふく食べた太った三人が寝ている。


傑作選3.「ネーデルランドの諺」(1559)
100人もの人が描かれている。尻を出して用を足している。85もの諺が描かれている。豚にバラ。ウナギの尻尾を掴む。子牛が暴れてから穴をふさぐ。
しかし、ブリューゲルはユーモラス。人間を描き、人間愛がある。世界劇場の思想がある。この世は、一つの劇場だ。
年老いた夫に青いマントを着せている若くて美しい妻。青いマントは欺瞞の象徴。妻の不貞を現わしている。
尻を出してウンチをしている。
橋の上の馬。
洗濯物が干してある。
火を焚いて煮炊きをしている。
壁を塗る人。
真理は細部に宿る。
16世紀は、人間の可能性と限界を試そうとする時代。


傑作選4.「子供の遊戯」(1560)
馬跳び
逆立ち
輪回し
風船(豚の膀胱)
中心がない

傑作選5.「死の勝利」(1562)
骸骨に絞首台に首を架けられる人間。
首をかき切られる白装束の男。
骸骨の大群。骸骨は死の象徴だ。
16世紀は、16世紀初頭に始まった宗教改革はヨーロッパを2分し、ヨーロッパ中で異教徒の弾圧が始まり、社会が荒れた。死が人々に襲いかかる。圧倒的な死。


ブリュッセル王立美術館
傑作選6.「反逆天使の転落」(1562)
神に逆らった天使が怪物になっていく場面。人間と昆虫が合わさった化け物。
カエルのような化け物。息苦しい濃密な場面が描かれている。汚いものから綺麗なものまで、全てが描き込まれている。怪物だらけで息苦しく混沌だ。
16世紀は怪物好きだ。メルヴェイユ。すっ飛び好きだ。


傑作選7.「農民の踊り」(1568)
村の宴会を描いた。農民が踊っている。陽気な農民の姿。バグパイプを吹く男は料理を美味しそうに見ている。
酔っぱらい。臭い息が吹きかけられてくるようだ。この作品では、視線は農民と同じ高さだ。
キスをする2人。日に焼けた農民のエネルギー、あるいは農民たち。


傑作選8.「農民の婚宴」(1568)
画期的な瞬間。運ばれてくる粥やスープに手を伸ばす若者。花嫁は億に小さく描かれている。
農民の旺盛な食欲が描かれている。スープを口に運ぶもの。空いた皿が重ねられている。
ものを食べるところを描くのは、当時は御法度だった。


傑作選9.「雪中の狩人」(1565)
厳しい自然の中に生きる人々をとらえた。獲物を背負って、疲れた感じで村へ帰る人々。犬が14匹なのに江mのはキツネ一匹のみ。
遠く村の情景が描かれている。氷の上に村人が集まっている。遊んでいる。カーリング、スケート、コマ回し。奥の方に煙突から火が吹いていて、ハシゴを立てて消火活動をしている。
目の前に広がる現実の光景。リアルさを感じる。
人間のありのままの営み。
1569年に亡くなるブリューゲル。40歳前後か?


傑作選10.「絞首台の上のかささぎ」(1568)
最晩年の作品。絞首台の下で踊る農民。絞首台には誰もつるされていない。死をも恐れず、逞しく生きる人間。
絞首台はブリューゲルがよく描いたテーマだった。
遺言で、妻にのこの絵を残した、といわれる。
「かささぎ」は、ブリューゲルか?一人百科事典。一人地球儀。

ブリューゲルは、革命児だった。


2010.10.24







古代日本のハイウェー 1300年前の古代道

2010.10.13 古代日本のハイウェー 1300年前の古代道

・NHK一般

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古代史スペシャル
古代日本のハイウェー ~1300年前の“列島改造”~  平成22年10月13日放送

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真っ直ぐな路。10メートル以上ある。13m~14m。
ぬかるみにならない。固いまま。金ゴテで叩くと金属のような音。大雨が降ると両側にある側溝に流れて常に乾いたまま。
律令国家とは、律令で国を支配していく国家。
国府をおいて、そこに国司を配置し、国家として地方を支配している。
古代道は今でいう高速道路だ。高速道路で国府を繋いでいる。出来るだけ直線で結んだ。真っ直ぐな路。

途中には駅舎(うまや)があった。
航空写真に残されている直線。古代道の痕跡だ。古代道ナビゲーター。
奈良埋蔵文化財研究所の木簡。

木簡を見ると何を運んでいたのかが分かる。
「鈴守」
時刻を示している。2時間おきだ。

「駅鈴」とは?
古代、駅舎(うまや)の利用証。「鈴印」は、天皇御璽と同じくらいに大切なものとされた。
天皇の指令文書を国府に届けるにしても、出発する場所がそれなりにあった。それなりの場所からであり、儀式もあった。
平城宮のまさに中心部から出発した。
地方へ向かう使者に対する儀式は大変なものがあった。伝令が鈴を鳴らして使者の元へ走る。
鈴を全国ずっと慣らしっぱなしで走る。伊勢神宮の前を除いた。

「駅鈴」は天下御免の印。
太宰府まで古代の山陽道を行く。

高槻市。府中町。
古代道の発掘は、それまでの古代道の常識を破る大発見だった。
なぜ、10m以上の幅が必要だったのか?

兵庫県加古川市。
1300年経った今でも、駅舎の後は何となく分かる。航空写真で、工場の敷地。
古代道は直線を前提にしているのだ。盛土、切土が多い。
ため池も出来た。すごい土木技術で列島改造をしていった。
土木技術。一番下に木の枝葉を敷いた。その上に一層一層土を固めて積み重ねた。

竹中土木。大成建設。

分遣には何ものっていない古代道。

ものつくり大学で道路を造る道具を作る。木製の鍬。測量技術も昔の方法で行う。
今のお金で、1兆4000億円かかる。総延長6300km。人力で石を一つ一つ運ぶ。
動員数、延べ3000万人。すべて人の手で作る。複雑な構造で作られている。丸太と杭で土留工が施されている。
3千万人。盛土をしたときは2倍の人手がかかる。

奈良時代の総人口は450万人。
低湿地の盛土。10cmの厚みの土の層を積み重ねている。何層も積み上げる。

群馬県安中市の古代道発掘現場。

こんな広い直線の古代道を構想したのは誰か?
天智天皇と天武天皇。
完成させ、延ばしたのは天武天皇。
日本は、唐と新羅の連合軍と戦う百済を軍事支援した。その結果、白村江の闘い(はくすきのえ、はくそんこう)(663年)で百済・日本軍は惨敗した。唐と新羅の連合軍は、このまま日本に攻めてくるのではないか?と想定して、水城(みずき)のような要塞を築いた。天智天皇は西日本各地には山城を築いた。軍隊を素早く異動させるため、幅が広く真っ直ぐな道路を造った。
軍隊と物資と情報の異動を素早く行えるように。

壬申の乱。天武天皇と大友皇子との戦い。大海人皇子(天武天皇)の勝利。
天武天皇は国名を倭国から日本と変えた。
律令制度を完成した。飛鳥清御原令。

天武天皇が古代道を完成させた。国家の力を視覚的に示した。
県庁に相当する国府の記録は文献上はない。

古代道はどのように使われていたのか?

駅使

鈴を鳴らしっぱなしで走った。うるさい。ちょうど今の救急車やパトカーのサイレンと同じ。
1日で10駅、160kmを走った。4日で太宰府から奈良へ行けた。
古代道は、税の一つである、「庸」と「調」を運んだ。

国司

以前は国府の跡だと思われていたところは、今では駅舎(うまや)であることはほぼ、認められている。

銅山。

古代道のルートは、今の高速道路のルートとほぼ同じ。目的が同じだからだ。全国に68あった国府と都を結ぶもので、直線で、幅は広い。現在の高速道路は総延長6500km。古代道は6300km。

古代道建設のために立ち退き、住居移転した跡がある。

舟で海峡を渡る。
九州。福岡。航空自衛隊春日基地。交渉して調べることが出来た。
古代の道路は軍事が目的だ。古代ローマ、アッピア街道。

太宰府政庁跡。
古代道を強力に推し進めた国家でも、古代道が消えていく力を押し止めることは出来なかった。古代道は取り崩され、農地の土となった。
時代が変わり、人々の支持が得られなくなると消えるしかなかった。
学ぶべきところは歴史である。
今、古代道のほとんど地面の下である。


2010.10.13







第3回 唐風美人画 国産の謎

2010.10.13 第3回 唐風美人画 国産の謎

・NHK 一般

シリーズ 正倉院 宝物が語る平城京
第3回 唐風美人画 国産の謎  平成22年10月13日放送

正倉院
およそ1300年の時を越え、奈良時代の至宝が受け継がれてきた。ここには日本に残る最も古い屏風が伝えられている。

「鳥毛立女屏風」

鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)。ふくよかな面差し、中国・東風の美人像として名高い宝物だ。
女性の衣服は鳥の毛で覆われ尽くされていたと言われている。何のためか?

CGで当時の姿を復元。
次第に華麗な衣装が現れてくる。この極めて珍しい屏風は国の威信をかけて作ったことが分かってきた。
中国レベルのがある。美術品も工芸品もある、政治制度も完備している。
国是として東アジアの一角の国として主張することとした。
100点余りの屏風。国際社会で奮闘する日本の姿。

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シリーズ 正倉院 宝物が語る平城京
第3回 唐風美人画 国産の謎  平成22年10月13日放送

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正倉院は、奈良時代の最盛期を築いた聖武天皇ゆかりの宝物庫だ。聖武天皇が亡くなった756年、その身の回りの品々が納められたのが始まりだった。
代表的な宝物、「鳥毛立女屏風」。もとは、つながった一つの屏風。
木の下でゆったりと憩う女性の姿を柔らかな線で描かれている。

横に広がったボリュームのある髪型、豊かな頬に太い眉、小さく厚い唇。額と唇の横の緑色の化粧は唐の人の装い。唐の全盛期の女性像。8世紀。
「紅陶加彩女子」(こうとうかさいじょし)ふっくらとした顔や髪型。
鳥毛立女の女性は、その特徴とよく似ていた。唐からもたらされたものと思われていたが、わずかに残る羽を調査したら、日本のヤマドリだった。国産だった。
正倉院には他にも鳥の毛を使った屏風が残されている。

「鳥毛篆書屏風」(とりげてんしょのびょうぶ)

鳥の毛を使った屏風が残されている。鳥外典書屏風
高さ150cm。君主の心得が記されている。
篆書と楷書の2種類でかかれている。中国の思想がかかれている。
「主は独り治むる事なし。臣の参明する有り」

日本のヤマドリやキジの羽だった。
いかにも中国風だが、国産だった。年代も限定できた。
天平勝宝4年、752人、とあった。
朝廷で使われた紙の再利用だ。752年から756年の間に作られた。

「臈纈屏風」(ろうけちのびょうぶ)

銅を使って染めた。画面の上に墨で年号も書かれている。
天平勝宝3年、751年に、税として納められた。
当時、次々と日本で屏風が作られた。
国家珍宝帳。宝物が納められた最初の目録。
屏風は100点あまり。なぜ、これほどの数の屏風があったのか?

752年、東大寺大仏開眼供養。新しく作られた大仏に目を描き入れる儀式だ。
巨大な大仏を作ることで、日本の持つ高度な技術と国力を示そうとした。宗教も法律も中国に引けをとらない国造りを目指した古代日本。東大寺大仏開眼供養は、一つの到達点だった。

仏教の本場、インドから高僧を迎え、国際色豊かな歌舞音曲が披露されるなど、かつてない華やかな儀式となった。
続日本紀には、この頃、多くの外国人が日本を訪れていた。新羅の王子が東大寺大仏を拝観した。日本の国をアピールする場だった。
中国との対等の外交をするために大事な場だった。
たくさんの唐風の屏風。中でも極めつけの鳥毛立女。

唐の歴史書では鳥毛は唐で大流行したファッションだった。
ヤマドリやキジは独特の光沢がある。構造色がある。素材以外の色が羽の構造によって違う色が見え、光沢が見える。
コンパクトディスクの光沢と一緒。CDは、ギザギザの構造になっていて、虹色が見える。

ヤマドリは、日本独自の鳥。これが日本独自の色を出そうとしたのか?
どのような色だったのだろうか?CGで再現してみる。

羽のヤマドリにも、胸毛もあり、背中もある。何種類もある。

唐の絵を参考に復元を試みる。スカート、ショールなどを参考にする。スカートにふわふわしたヒダの流れを組み合わされる。
流れるような美しさ。ショールとスカート。
一ヶ月以上、検討した結果、できあがった立女。
正倉院に納められた屏風は100点あまり。

どのように飾られたのだろうか?
正倉院のCG。どのような効果を上げていたのか?
京都女子大学学長。

政治と屏風は深く関わっていたという。
天皇の周りをコの字形に囲っていた。
山水画屏風。高さ7尺2寸。2m15cm。当時としては飛び抜けて大きい。これが天皇の真裏にくる。
天皇の傍らには「鳥毛篆書屏風」。
天子の心得がかいてあり、天皇が何時も目にすることが出来る形だ。
続いて、「臈纈屏風」(ろうけちのびょうぶ)
目録によると、10組あった。

ぐるりと並ぶ豪華な唐風を出していった。鳥毛立女はどこか?

天皇の寝室か?
低い屏風だ。高さがプライベート空間か?
屏風は場に応じて使い分けられた。

「鳥毛篆書屏風」
家臣を重んじた政治をせよ、これが執務室に来客用の間に鳥毛篆書屏風があっただろうか?
日本の鳥の羽を使った、唐に負けない高い技術力を持ってきた屏風。
国是として東アジアの国の一つとしてアピールした。

空間も中国にならった宮殿を造ることは、当時としてはとても大切だった。
古代日本の情熱が語られている。


2010.10.13














正倉院 第2回 楽器群 伝来の謎

2010.10.12 正倉院 第2回 楽器群 伝来の謎

・NHK 一般

奈良時代の至宝を守り伝えてきた正倉院。中でも楽器は華麗な装飾で描かれ、異国情緒あふれる工芸品として名高い。
中国、唐の琴。煌びやかな金と銀の文様で埋め尽くされている。単なる娯楽の品でなく、それ以上の目的があって集められた。
これらの楽器は日本の国造りに深く関わっていた。

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シリーズ 正倉院
宝物が語る平城京  第2回 楽器群 伝来の謎  平成22年10月12日放送

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奈良、東大寺。
正倉院は、もともと東大寺の倉として建てられた。
756年、聖武天皇が亡くなったとき、身の回りの品々を納めたのが正倉院宝物の始まりだった。

<聖武天皇>(701~756)(在位724~749)

宝物中、貴重さと美しさで随一と云われるのが、「螺鈿紫檀五絃琵琶」。
インドで生まれたといわれる五絃琵琶。次第に失われ、正倉院のご絃琵琶は、世界でただ一つ残るものとなった。
シルクロードの香りを伝えるユニークな装飾。

輝くヤコウ貝でラクダに乗った人物が琵琶を奏でる姿が描かれている。裏側はさらに豪華だ。
ヤコウ貝と鼈甲で奏でる文様は唐のデザイン。

紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうびわ)
エキゾチックな雰囲気をたたえている。裏側は和やかな細工で文様が散りばめられている。象牙、鹿の角

螺鈿紫檀阮咸(らでんしたんのげんかん)
唐で使われた弦楽器。斬新なデザイン。オウムが飛ぶ。ヤコウ貝、鼈甲、琥珀。
世界で屈指のコレクションがそろう。

「国家珍宝帳」
国家珍宝帳に楽器の秘密がある。
揃った数字がおさめられている。同じ袋に入っている楽器もある。楽器の装飾も皆、似ている。
何かの目的で一揃いのオーケストラを構成していたのか?

唐は、当時は大帝国。音楽も盛んだった。特に玄宗皇帝の時には「楽礼」といって、国家の中でも重要な位置を音楽は占めていた。
京都、陽明文庫に五弦の琵琶の写本が伝わっている。皇帝の大きなる力を讃える音楽が聞こえてくる。中国で楽器を作っている先生が、日本を訪れている。
これらの楽器は吉備真備が唐から持ち帰った。717年。遣唐使として唐に渡った吉備真備。唐では17年間勉強した。
正倉院の楽器は吉備真備がもたらした。
唐の皇帝の権力の大きさと強さが現れている。

<礼楽>

日本の天皇たちは中国の皇帝を見習って日本を作り上げようとした。唐の制度を参考にして、新たな国造りを進めていた。音楽によって皇帝をたたえようとしていた。


2010.10.12









幻の巨大八角塔 古代最期の女帝の夢

2010.10.12 幻の巨大八角塔 古代最期の女帝の夢

・NHK 一般

奈良時代(710~784)
仏教が広まり、都には寺院が相次いで建立。五重の塔や七重の塔が建てられた。
これらの塔は、当時の最先端技術を駆使して建てられた新時代の象徴だった。
その中でも、ひときわ異彩を放った巨大な塔が計画された。舞台は平城京の西、西大寺。
境内には、その塔の手がかりがあった。敷き石は八角形。昭和30年の発掘調査で見つかった塔の痕跡だ。

ここに八角形の塔が建てられようとしていたことが明らかになった。
完成すれば平城京最大の建築物となる。

なぜ、西大寺で作られようとしていた塔が八角形なのか?
八角塔を建てようとしていたのが、称徳天皇(718~770)。

数奇な運命をたどった古代日本最後の女帝だ。称徳天皇が建てようとした八角塔とはどのようなものだったのか?現存する八角塔は長野県上田市の安楽寺三重塔。
国宝、安楽寺三重塔。

権力闘争に翻弄された称徳天皇の数奇な運命。平城京最大のミステリー。平城京最大の八角塔の謎。

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平城京 幻の巨大八角塔 ~古代ニッポン 最後の女帝の夢  平成22年10月12日放送

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奈良東大寺の大仏。高さ16m。優れた技術をもとに華麗な文化が花開いた古代日本の文化を物語る。
聖武天皇の命で建てられた。

<東大寺大仏殿>

奈良の都、平城京。その東のはずれにあったのが東大寺。この東大寺に対して、平城京の西に建てられたのが西大寺だ。
創建は765年。

西大寺は100以上の建物からなる大寺院だった。広さは今の30倍。その西大寺は何度も火災に遭い、現在は創建当時の建物は残っていないが、近年の発掘調査で、歴史的発見が相次いだ。

2006年、食堂院跡の発掘調査で井戸の跡が見つかった。2.3m四方。最大級の井戸だ。当時は数百人の僧侶が生活していた。

2009年には、旧西大寺境内の発掘調査で、鮮やかなイスラム陶器が発掘された。アラビアやペルシャの陶器。
異国の土器の出土。西大寺は一大文化拠点だった。

8月4日は「称徳忌」。孝謙天皇として即位した後、再び即位して称徳天皇となった。
仏教の力で国をおさめようとした。仏教で国を治める。鎮護国家である。
強い信念と情熱があった。

称徳天皇は西大寺に空前絶後の塔を建てようとしていた。高さは15丈。約45m。
昭和30年、4角形だった跡の、基壇の下から、なんと、もうひとつの建物の基壇が見つかった。八角形だ。
幅26.6m。高さは90mを下らないと推定される。

日本霊異記に記されている不思議な物語。閻魔大王と時の右大臣の話。八角形の塔を四角形にしたから閻魔大王に睨まれている、という。

幻の八角七重の塔。

一六世紀、五重塔は火災にあって焼失した。
もし八角形の塔が完成していたら90mになるか?
称徳天皇が生まれたのは718年。
父は東大寺大仏建立を命じた聖武天皇。(701~756)
母は光明皇后。貧しい人々のため、救済事業をしたことでも知られる。(701~760)
自ら病人の世話にあたったと言われる。
父も母も藤原氏と血縁関係にあった。それが運命を大きく左右した。
少女時代は阿倍内親王と呼ばれた。10歳のとき弟が誕生した。父は大いにひょろこび、727年、生後32日で皇太子とした。
しかし、翌年、病弱な弟は満1歳にならずに亡くなった。聖武天皇のもう一人の婦人に一人の男子が誕生した。安積親王だ。この親王を皇太子に建てる動きがあった。
反対勢力を押し切って、聖武天皇は大きな決断をする。阿倍内親王を皇太子に立てた。

738年(天平16年)、21歳で史上初の女性皇太子になった。
女帝の時は内乱やクーデターがあるという。政変もあった。それを承知で聖武天皇は立太子した。
批判勢力が強くなる。
聖武天皇自身が宣言した。阿倍内親王の立場を強化した。
藤原氏の氏寺、「興福寺」。奈良、興福寺。

国宝、阿修羅像。
光明子(光明皇后)の命によってつくられた。(734年、作)
愁いを含んだ複雑な表情に、娘がたどるであろう過酷な運命を重ね合わせた。生涯独身を強いられる。
自分が皇太子を産んでさえいれば、と思う光明子の心。憂いと悲しみ。しかし、心の強い阿修羅の複雑な表情に、光明皇后の気持ちが表れている。

当時の奈良の都は次々に災害に見舞われていた。聖武天皇は、仏教による国家事業を興した。大仏造りだ。大仏建立の詔。
聖武天皇は病になった。749年、阿倍内親王は孝謙天皇として即位した。32歳。
「仏法僧の三宝を盛んにせよ。」

752年、「大仏開眼供養」が行われた。
756年、聖武天皇崩御。

再び称徳天皇として即位し、西大寺八角塔の建設に着手した。東大寺と比肩する寺院をつくりたかった。大仏と並ぶものが八角塔だった。
八角塔とはどんな姿だったのか?
中国山西省応県。応県木塔。1056年。八角形で世の中の全てを現すというのは古代中国の道教の思想だ。
釘は一本も使われていない。
各階に仏像が安置されている。仏像を見ながら上の階に行くようになっている。
複雑な木のパーツの組み合わせ。木のパズルのようだ。揺れを吸収する構造となっている。

「組物」

組物の博物館といわれている。最上階からの見晴らしの素晴らしさ。
日本にも八角塔がある。700年の時を超えて現存する。
長野県上田市、安楽寺。
国宝、安楽寺の八角三重塔。13世紀末から14世紀。鎌倉時代、この辺を治めていた北条氏の供養塔として立てられたといわれている。
高さ、19m。

裳階(もこし)
これを除いて三重塔といわれている。
回りながらお参りが出来る。
「鏡天井」

それぞれ、奈良時代より遙かに後の時代につくられている。しかし、西大寺の八角塔はどのような技術で建てられていたのか?
細くて優美な安楽寺八角塔。
西大寺は堂だったのか?
応県東塔のようなどっしりとした造りだったのか。
興福寺五重塔。塔とは仏舎利を入れた宗教的モニュメントだ。芯柱の周りは吹き抜けになっている。応県は積み木だ。
安楽寺は鎌倉時代の技術。どちらも奈良時代にはなかった。

八角塔にどんな想いを込めたのか?

二〇〇九年9月。大きな発見があった。
八角形の古墳跡だ。日本独自の物だ。
八角塔は、天皇を象徴する特別な意味がある。「八」は、遍く統治するの意味だ。

平城宮大極殿。2010年復元。高御座(たかみくら)。これが正八角形だ。天皇であることを強く主張する必要があり、八角形に拘った称徳天皇。

称徳天皇は、中国は唐の則天武后に多くの影響を与えられた。則天武后(623~705)

690年、唐から週に改めた。龍門石窟に大仏をつくった。る舎那仏像。
これが東大寺大仏のモデルといわれる。

則天武后は八角形に拘った。世界を遍く治める。則天武后は4文字の年号を使った。称徳天皇もそれにならったといわれている。
平城宮の庭園は唐の庭園にならったもの。西大寺にも庭園があったという。その全容。薬師金堂と弥勒金堂。珍しい例だ。
八角は鎮魂のシンボルか?

757年、橘奈良麻呂の乱。
未然に鎮圧されたが、孝謙天皇はショックを受けて退位した。
次いで即位したのは、藤原仲麻呂の息子同然の、淳仁天皇だった。淳仁天皇、758年即位。

藤原仲麻呂は太政大臣にまで上り詰めた。孝謙天応は上皇になった。道教を重用した。それを淳仁天皇と仲麻呂は2人の仲を諫めた。これに称徳天皇は怒った。

764年、藤原仲麻呂の乱。
764年、称徳天皇即位。孝謙天皇が重祚した。

西大寺四王堂の四天王像。
像は鎌倉時代のもの。邪鬼は奈良時代のもの。
政治変革のシンボルではないか?

766年、道教が法王に就任。天皇に匹敵する立場だ。仏を最高位にした。

八角塔には称徳天皇の想いが幾重にも重ねられている。八角塔がたどった運命は?
出来上がった設計図に基づき、20分の1のモデルをつくる。ミニチュアだ。
「続日本紀」に西大寺東塔建設の記述がある。

道教に関して、宇佐八幡宮からの宣託。道鏡を天皇にすれば世の中は治まる。
称徳天皇は、その真偽を確かめるため、使者を宇佐八幡宮へ派遣する。全く違う宣託が下った。
道鏡を追放せよ。
称徳天皇は使者を流罪にした。しかし、道鏡は天皇のはならなかった。

770年8月4日、称徳天皇崩御。

八角塔は完成することはなかった。
最期は女官がそばにいただけの、静かな死だったという。
奈良時代の技術では不可能だっただろう。無謀な計画は、なぜあったのか?政治的なものだったからだ。


2010.10.12










最新分析が明かす仲麻呂の乱

2010.10.11 最新分析が明かす仲麻呂の乱

・NHK 一般

平城京最大のクーデター ~最新分析が明かす「仲麻呂の乱」 平成22年10月11日放送


琵琶湖。湖の中の遺跡調査。琵琶湖古代の貴重な遺跡。いくつも見つかっている。
江戸時代に湖に沈んだ集落の石垣。
石仏があった。
地上の遺跡には残っていないものが、水の中にはある。
水の中から古代史の常識を覆す遺跡が見つかった。
「古代勢多橋」の遺跡。1300年の時を超えて見つかった。
幅8m、長さ130mに及ぶ巨大な端であることが遺跡から分かった。
古代の橋は簡易なもの、という常識を覆した橋だ。

764年9月。勢多橋を焼き落とした戦乱。藤原仲麻呂の乱。孝謙大上天皇と戦った。

「続日本紀」では、逆臣と書かれている。奈良時代最大のクーデターといわれた戦い。しかし、続日本紀では、50行ほどの記述しかない。木簡の発見により仲麻呂の意外な素顔が分かった。

764年9月11日、奈良平城宮で始まった藤原仲麻呂の乱。9月18日、琵琶湖の湖畔で討ち取られた。

平城京跡で見つかった木簡から、様々なことが分かった。
仲麻呂は近江の国へ。しかし、先回りして勢多橋を焼き落としていた。
孝謙大上天皇は3ヶ月も前から計画を立てていた。
近江に一代要塞を築いていた仲麻呂。
琵琶湖の湖畔で家族と迎える仲麻呂の最後。

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追跡
平城京最大のクーデター ~最新分析が明かす「仲麻呂の乱」~  平成22年10月11日放送

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奈良文化財研究所により、50年にわたって発掘されてきた。瓦、柱の跡。木簡から分かる役人の仕事や庶民の暮らし。
三条大路の「田村第」に住んでいた、藤原仲麻呂。
田村大の仲麻呂邸の敷地は、東西250m、南北530m。推定年収6億円。給料だ。

2007年の八口で仲麻呂の意外な一面が分かった。

「供養」
仲麻呂は仏教を推奨して自分の金を費やした。仲麻呂の唐への傾倒の一面。投下ぶれの仲麻呂。
律令を学ぶ仲麻呂。
仲麻呂は唐を勉強した知識人だった。

757年4月4日。仲麻呂は大炊王(おおいいおう)を後見していた。大炊王は皇太子となった。
758年8月1日。淳仁天皇が即位。仲麻呂は淳仁天皇から、「惠美押勝」(えみのおしかつ)の称号をもらった。
名前をもらって政治権力の頂点に立って律令国家を目指した。

孝謙大上天皇は聖武天皇と光明皇后の娘。孝謙大上天皇は皇位を譲っても大きな力を持っていた。
2人の考えは大きく違っていた。
仲麻呂は律令国家を理想としていた。仲麻呂の政治理念は儒教国家だった。
理想を追求しすぎたため、大上天皇との関係画を疎かになった。孝謙大上天皇は天皇家による政治を目指した。
孝謙大上天皇と藤原仲麻呂が描く国家のイメージは齟齬をきたしていた。
淳仁天皇と孝謙大上天皇が対立し始めた。

762年5月。孝謙大上天皇は法華寺に移り住んだ。孝謙大上天皇は弓削道鏡に病を治してもらった。
淳仁天応は孝謙大上天皇に道鏡との間柄を諫めてて、上皇の逆鱗に触れた。

762年6月3日。子にの大事と賞罰は自分が行うとして、重要事項の決定権を奪おうとした。
天皇御璽の判子と駅鈴の2つが淳仁天皇の元にあった。だから、決定権は淳仁天皇にあったといえる。
天皇権力の象徴だった、この2つはまだ、淳仁天皇にあった。

重要な決定を記した文書に押される判子、「天皇御璽」と、全国の道の通行証だった鈴、「駅鈴」。

「天皇御璽」と「駅鈴」は、公の命令を全国に伝える、まさに天皇権力の象徴だった。
皇統からいえば、孝謙大上天皇の方がふさわしい。
このような不平不満が結果的には「天皇御璽」と「駅鈴」を奪って天皇権力を自分のところに取り戻すという考えから仲麻呂の乱が起きた。

764年9月11日。
孝謙大上天皇には、天皇御璽と駅鈴を奪うため、遂に行動に移した。
乱の実像の手掛かり。

奈良文化財研究所に保管されている木簡。泥の中から木簡を探す。衛士の「衛」。木簡は削って再利用されていた。その薄い削りカスも分析されている。
赤外線による文字分析。赤外線は住みに吸収されやすく熱を帯びる。
10万点の木簡が見つかっている。

仲麻呂と孝謙大上天皇が天皇御璽を駅鈴を奪う戦いのVTRを、研究所が作った。
たった9人のキャストでVTRをつくった。
それで分かったことは、乱は大きな戦乱ではなかった。鈴印(天皇御璽の判子と駅鈴)を守る日程で、それが2時間おきにやって来るという記述。
鈴印争奪戦だ。

764年9月11日。今の10月末。
中衛府。鈴印を守る役所。中衛府は藤原仲麻呂が管轄していた。孝謙大上天皇の極秘指令を受けた3人がやってきて、鈴印を守る役目を横取りした。
仲麻呂の三男がそこへやってきて、殺された。さらに仲麻呂の司令官もやってきて殺された。
鈴印を奪い取るのではなく、それを守る役目を巡る争いだった。
仕掛けたのは孝謙側だった。
しかし、歴史書は、そうは書かないが、それは当然だ。仲麻呂は近江の国へ逃れようとする。

なぜ、急ぐはずの仲麻呂が遠い道を選んで逃げたのか?追う孝謙側は45kmに対して、仲麻呂側は35kmで、10kmも違う。近い。なぜか?

1300年前の追撃の分岐点。追撃部隊のルートの方が厳しい道だった。
勢多橋の発掘調査だと、一番古いなら時代の橋が一番立派だった。幅8mもあった。追撃部隊はこの大きな橋を短時間で焼き落とした。それは可能だったのか?

ミニチュアの橋を「ものづくり大学」(埼玉県行田市)でミニチュアで作って焼き落とす実験をした。5分の1の大きさで、47分かかった。実際の橋だと焼き落ちるまで2時間かかる。
謎だらけだ。2時間かかる。
つまり、仲麻呂の追撃部隊が勢多橋を焼き落とすためには、少なくとも2時間は早く勢多橋に着いていなければならないということになる。3ヶ月も前から戦いがあった。仲麻呂の一族と孝謙側との戦いや、弓削道鏡の弟と仲麻呂側との戦いがあった。
なぜ、藤原仲麻呂は近江国府を目指したのか?
1948年の航空写真。まだ、開発が進んでいない。当時の国府の跡が見えてくる。900m四方の巨大な国府。
惣山遺跡の発掘現場。倉庫と堀の跡。巨大な倉庫群。

「版築」
土の層が縞になっている。大土木工事だ。入口の土の層を作って人口の高台の平場にした。
藤原仲麻呂は、ここに19年の年月を過ごした。
近江の瓦には特徴がある。仲麻呂がこの紋を好んだ。
孝謙大上天皇は、仲麻呂を近江国府に入れたくなかった。

淳仁天皇は捕まえられて、淡路島に流されてそこでなくなった。天皇制は危うい立場だった。
価値観が定まっていなかった。豪族がまだいたし、中国の影響もあった。仏教、儒教の影響もあったし律令制自体にも疑問があって。今のように天皇の権威は絶対ということではなかった。

愛発の関
不破の関
鈴鹿の関

2005年、敦賀市で奈良時代の遺跡発見があった。仲麻呂が逃れていってぶつかった関だったのか?

地中レーダーによるコンピュータ解析。

2005年の出土品。単なる住居跡からの出土品とは違う。鉄や銅がある。
奈良時代の竪穴式住居の跡だ。作業所や工房の跡が問題。

関所で、奈良麻呂は戦いの様子を見た。
琵琶湖の西岸で家族と共に倒れた。
琵琶湖の勝野の鬼江という入江。仲麻呂が家族と共に乗ったといわれる舟を探している。
滋賀県立大学教授、林教授。
惠美押勝の古墳か?

仲麻呂が乱を起こしたのではない。政治権力を巡る争いで、仲麻呂が敗れた、ということだ。

764年9月18日、仲麻呂の終了。

その後、孝謙大上天皇は再び天皇に即位する。
道教と共に政治の実権を握った。
仲麻呂の胸の内に思いを馳せる。

歴史のロマンを感じる。


2010.10.11












第2集 海 豊かな命の物語

2010.10.11 第2集 海 豊かな命の物語

・NHKSP 日本列島

NHKスペシャル シリーズ 日本列島 奇跡の大自然
第2集 海 豊かな命の物語 平成22年10月11日放送

今回の舞台は命溢れる海。世界北限の珊瑚礁と世界南限の流氷。
世界最大の暖流。深さ1万メートルの深海。日本には地球の海のすべてが揃っている。
生物の種も多く、3万4千種といわれている。その秘密はどこにあるのか?
偶然が重なって出来た奇跡の自然。世界で一番、最も生物の種類が多い。3万4千種と言われ、世界全体では23万種だから、15%にのぼる。
世界の海が揃っているからだと言われている。
沖縄は珊瑚礁。日本の珊瑚礁は世界の北限だ。夏、沖縄の海の水温は28°Cにもなる。熱帯の海と同じだ。
日本の海の珊瑚は400種。オーストラリアのグレートバリアリーフと同じだ。
暖流に載って様々な珊瑚が運ばれる。枝状の珊瑚。団扇の形をした珊瑚。そこに暮らす魚の種類も多くなる。

タツノオトシゴ。

キンメモドキ。巨大な生き物に自分の身体を見せる。1選手にも上る魚の種類が住む沖縄の海。
マングローブの林。海水と淡水が混じり合う場所に成長するマングローブ。

ミナミコメワキガニ。数限りないカニの群れ。マングローブの干潟を埋め尽くすかに。60種類のカニ。

東京都小笠原諸島。
特別な訪問者が現れる。体長13m。体重30トン。ザトウクジラだ。毎年冬になるとアラスカなどから5千キロをかけて旅をしてやってくる。10頭を超えるザトウクジラが小笠原諸島の沿岸にやってくる。出産と子育てのためだ。生まれたばかりの赤ちゃんは脂肪が薄く、深く潜ることも出来ないため、陸の周りの暖かく浅い海が必要だ。25種類ほどが確認されている。日本は海のほ乳類の宝庫だ。

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北の知床。
海底を埋め尽くす色とりどりの海藻。水温は夏でも18°C。寒流が運ぶ冷たい海水には、海藻の成長に必要な栄養分がたっぷりと含まれている。
ここに魚が集まる。300種の魚。
冬、流氷に覆われる。日本の海は、流氷の南限だ。
遙か1千キロメートルの彼方からやってくる生き物がいる。「オオワシ」だ。
カムチャッカからやってくる。世界で5千羽しかいないオオワシのうち、半数がここ知床にいる。オオワシのお目当ては魚だ。
日本の沿岸には様々な魚がいる。

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南から北の湖の温度差は20°Cにもなる。世界の海が揃っている日本。温度差が種類が豊富な理由だ。
海流がそれを作っている。北からの冷たい親潮。南からの暖かい黒潮。
北からの寒流は、養分がたくさん含まれていて様々な生き物が育つから親潮といわれ、南からの暖流は色が黒く見えるから黒潮と言われている。母なる流れの親潮。黒く見えるから黒潮。

潮目。
海の色が違う。冷暖の海水がぶつかり合うところ。
千葉県銚子沖から北海道釧路沖まで、大規模な潮目が続く。
手前の穏やかな海は冷たい親潮。波立っているのは暖流の黒潮。

ハマイルカの大群が潮目を追いかける。1千頭を超える。海の中ではクロマグロなどの大型の回遊魚が集まってくる。大型回遊魚は小魚が目当て。小魚は動物プランクトンを食べる。動物無ランクトンは植物プランクトンを食べる。太平洋に浮かぶ水色の渦。プランクトンの渦。宇宙からも見える。直径200km。スーパーコンピュータで海流を映像化する。黒潮は幅1km。時速7km。風と自転で西向きに流れる。フィリピンにぶつかり北に向かう。黒潮は透明度が高く黒く見える。

北からはカムチャッカから親潮が流れてくる。寒流だ。窒素や燐など、植物プランクトンの成長に欠かせない栄養素が含まれている。この2つの海流が出会うところ。東北の沖合にドーナツ型の流れ、渦ができる。
暖水塊だ。暖水塊は、黒潮から生まれる。暖流は寒流とぶつかり、複雑に動く。ちぎれた塊。それが暖水塊だ。深さ1000mにも達する。深く沈んだ寒流の深い部分の栄養素を海面近くに巻き上げる。巨大な植物プランクトンが大発生。親潮の栄養分と黒潮の熱で、植物プランクトンの渦を生じさせる。豊富な魚の種と数。
マグロ、ハマイルカ、鰯の群れ。地球の動きが作る海流と巨大な渦。豊乃小物を育む。巨大な渦に集まる豊富な魚。三陸沖を世界三大漁場にしたのは2つの海流。

三陸沖の巨大な渦。日本の食文化は魚梨では考えられない。
目に青葉、山ホトトギス、初鰹。初夏黒潮に載って北上する鰹を、初鰹という。北の湖で小魚を食べた鰹が秋になると戻ってくる。それを戻り鰹。脂がのっている。


日本海。
日本海のカニ。日本海はとっても不思議な海。ぶり、カニ。
境港は日本一のカニの水揚げ。
植物プランクトン、動物プランクトン。鰯の小魚、などの食物連鎖。他の海にはない食物連鎖。この小魚はたった1種類だけだという。島根県沖。
日本海は魚の宝庫だ。それらの魚の餌となる、その重要な魚の調査が行われている。魚群探知機。
厚さ30m。長さ数キロメートル。巨大な小魚の群れ。キュウリエソ。2兆2千億匹。
日本海の隠れた資源だ。キュウリエソの魚は、撮影されたことはない。ロボット潜水艇。すいしん200m。太陽の光が届かない暗黒の世界。キュウリエソが泳いでいる。始めて見る映像だ。キュウリエソの大群。海面に引き上げると水圧の関係で直ぐ死んでしまう。4cmの体長。生態はよく分かっていない。ライトをあてると逃げてしまう。
クモヒトデの仲間がキュウリエソを食べる。様々な生き物がキュウリエソを食べている。1°Cの冷たい海底。

寒さに強い。2万年前から始まった氷河期。日本海は湖になった。氷で覆われて海水の出入りがなくなったからだ。酸素がなくなり、すべての生物が死滅した。
氷河期が終わり、海面が上がり、海に戻った。その日本海に一早く入ってきたのがキュウリエソだ。天敵のいない間に爆発的に増えたキュウリエソ。キュウリエソは、小魚を追って夜海面近くに上がってくる。それを摂餌(せつじ)する鱈などの魚が集まってくる。小さな魚の大繁栄が日本海を豊かな海にしていた。その小魚がキュウリエソだ。ハタハタ、鱈、イカ、アジ。

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千葉県館山。
日本海溝。海の水をすべて取り除いたときの様子。日本の近海には海溝が4つもある。6千メートル以上もある海の谷を海溝という。
4つもあるのは日本だけだ。深海魚の不思議な暮らしが、そこにはある。
光の存在が最大の違いだ。水深200mで光が届かない。植物プランクトンがいなくなる。光合成が出来ないからだ。

水深1千メートル。マリンスノー。プランクトンの死骸だ。生態は謎に包まれたままの蛸など。
日本海溝の7703mの地点で見た魚。800気圧だ。
この水圧で生きられる魚の映像。

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日本の海の豊かさと深く関係しているものは「鉄」。日本の海には鉄が多い。
プランクトンの渦が大発生する時期が一定しているのはなぜか?
鉄が豊富にある日本の沿岸。オホーツク海の北部に多い。ロシアアムール川の水が鉄を運んできていた。鉄は海水に溶けにくい上に、重く、下に沈んでしまう。にもかかわらず、オホーツク海の日本の近くにやってくるのはなぜか?
流氷が鉄の運び役。塩分の濃度の高い層が水深400mにある。
水深400mに冷たい水の流れがあった。アムール川の鉄が水深400mで太平洋に向かって流れる。
アムール川の流域には広大な湿地がある。
サハリンを回り、千島列島に流れは阻まれる。なんと千島列島の一部が偶然、開いていてそこから太平洋に流れ込み、そこに千島海流が流れていて、鉄分が運ばれる。ブッソル海峡だ。1ヶ月掛けて鉄がオホーツク海から太平洋に運ばれてくる。
海に光が入り込み光合成が行われ、黒潮で温度が上がり、鉄分を含んだ海水が植物プランクトンを爆発的に増やす。

シャチがやってくる。体長8m。シャチは生態系の頂点に立ち、イルカやクジラも襲う。シャチにせびれ。

珊瑚の白化。海の温暖化が原因。
オホーツク海は50年後には凍らない海になる。


2010.10.11









第1回 武器400点の謎

2010.10.11 第1回 武器400点の謎

・NHK 一般

シリーズ正倉院 宝物が語る平城京 第1回 武器400点の謎 平成22年10月11日放送

ガラスの盃
シルクロードを経て、遙かペルシャから伝来した「瑠璃杯」。


中国・唐の鏡。「平螺鈿背円鏡」。(へいらでんはいのえんきょう)
赤に色取った琥珀や、燦めくヤコウガイで一面に細やかな装飾が施された、古代工芸品の至宝。
世界でも類を見ない2010.10.11美の宝庫。
宝物の復元や最新の研究によって正倉院には意外な一面があったことが分かってきた。
当初、納められた品物には、大量の武器があった。権力を巡る思いがけない物語を紐解く。
知られざる正倉院の秘話。

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正倉院
宝物が語る平城京  第1回 武器400点の謎  平成22年10月11日

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正倉院
奈良、東大寺。
る舎那大仏坐像。
8世紀半ば、奈良時代を象徴する仏像。
大仏殿の北側に正倉院はある。東大寺の倉庫として建てられた。宝物が納められたのは756年。
ある人物の死が切っ掛けだった。
聖武天皇。
生前に大切にしていた品々を大仏に奉納したのが始まりだった。宝物を納めたのは妃の光明皇后。光明皇后は藤原氏の出だ。
2人は律令に基づく国づくりを進め、奈良時代の最盛期を築き上げた。

当時の宝物の目録、東大寺献物帳、第1巻。国家珍宝帳。
14mにわたって宝物が書かれている。
武器が多い。

太刀が百。
弓が百。
矢が百。
甲が百。

800点の光明皇后が納めた宝物の内、50%が武器だ。他を圧倒している。
「金銀鈿荘唐太刀」(きんぎんでんかざりのたち)

黒い鞘は艶やかな漆塗り。
金の蒔絵で鳥や獣の姿を描き出す。
透かし彫りの銀の柄には水晶の荘(かざり)。珍しい鮫の皮。刀身は、長さ78cm。よく鍛えられた鋼。剛堅な造りだ。

梓弓。木製の弓。黒と茶の連なる様がデザイン性を感じる。
弓につかえる矢。
鏃は鉄製。油が塗ってある。単なる儀礼のための武器ではなかったようだ。
何のために作られたのか?

復元した工房の主。河内国平。刀匠。
古代の刀剣の復元を手掛けてきた。刀身の焼き入れ。焼き。刀の切れ味を左右するのが「焼き」だ。
土を塗る。土を塗ったところは焼きではない。730°Cに熱する。水に入れると急に冷えて固くなる。急に冷やすと硬くなる性質を鋼は持っている。

宝物の太刀は儀式用といわれていたが、戦闘にも使えるものだった。
復元した武器武具。
武器の内でも戦闘に活躍したのは刀ではなく、弓矢だった。弓矢が戦闘の実際に活躍した。

引き口(鏃)。最も普及していた鏃。
「盾をも射抜く力がある」の記述がある。

鎧。単甲。桂甲。機動性に富む実戦的な武具だった。

武器は4種類100揃い。
兵士を100人、そろえることが出来る。
実際の戦いに役立つ数だ。当時の奈良は、内乱や内戦や、政変が続いた。

藤原仲麻呂の乱。
橘奈良麻呂の乱。
長屋王の変。

藤原仲麻呂の名前が国家珍宝帳にある。惠美押勝。
藤原氏縁の品々が多い。天皇家と結びついた藤原氏の宝物が納められている。

仲麻呂は非常事態に備えて武器と物資を保管したのか?

大安寺資材帳。
武器の記述がある。武器武具、約450点。j「仏物」とは、仏の物と添え書きしてある。
何かあったときに寺に使える者が兵士になる。
仏への奉納品としてあった武器は、そのまま戦争に使われた。

藤原仲麻呂が死んだ後、武器はどうなったのか?
仲麻呂が納めた武器は正倉院から内裏に運ばれて、仲麻呂討伐に使われた。


2010.10.11










ドガ 光と影のエトワール

2010.10.10 ドガ 光と影のエトワール

・日曜美術館

日曜美術館
ドガ 光と影のエトワール  平成22年10月10日放送


バレエ(バレー)絵画史上最高傑作がこの秋、日本にやってきた。
舞台を軽やかに舞い踊るドガのバレリーナ。
最高の瞬間を切り取った一枚。画家は舞台裏にも迫る。
稽古の中のふとした瞬間までバレリーナのあらゆる姿をとらえた。

エドガー・ドガ(1834~1917)

画家として致命的な目の病を抱えながらも、独自の手法で次々と新しい技法を生みだした。
やせ細った少女の不可解な彫刻。余りにリアルな肉体表現を巡って、パリ中を騒然とさせた。
生涯、バレリーナを描き続けた。踊り子の画家、エドガー・ドガ。


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日曜美術 ドガ 光と影のエトワール  平成22年10月10日放送

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エドガー・ドガ(1834~1914)

なぜ、ドガのバレリーナは私たちをこんなにも魅了する力を持っているのか?
エトワールとは、パリ・オペラ座の頂点に君臨するトップ・バレリーナのこと。

フットライトに照らし出され、ポーズを決める姿。今に画面から飛び出してきそうな躍動感に満ち溢れている。
訓練を重ねた者のみに与えられた肉体。観客の視線を体中に浴びて踊る喜びと誇り。
バレエ絵画の最高傑作として讃えられている。

ドガの絵はバレエ界でも評価されている。
着地のポーズを決める寸前の姿を描いている。次のダンサーの動きを予想できる。

舞台裏のダンサーの姿。ふとした動きや表情。

エドガー・ドガは、1834年、パリに生まれた。
祖父は銀行を興した実業家。父はその銀行の支店長。
最初、法律を学んだが、その後、美術学校に転学。

線を引きなさい。とにかく多くの線を引きなさい、と言われた。来る日も来る日もルーヴル美術館に通った。
その後、イタリアに留学して、巨匠をデッサンした。

帰国して肖像画を描いた。 「妹夫婦の肖像」
鋭い観察眼で妹の不安を描き出した。当時のブルジョアたちが仕事に向かう姿。リアルな社会を描いた。新聞を読む男たち。紳士。
生涯のテーマをつかむドガ。パリ・オペラ座。荘厳な建物。ナポレオン三世によって作られた。
ドガは、毎週のようにここでバレエを見ていた。

「ジゼル」

ドガの巧みなデッサン力と観察眼で踊り子を描く。身を潜めるようにしてじっとエトワールを見つめる黒服の男性。
ダンス・フォワイエ(フォアイエ、ホワイエ)
ダンサーがウォーミング・アップする場所。踊りよりも女性としての美しさが大切だった。女性は欲望の対象だった。
フランスのバレエは、16世紀にイタリアから入ってきた。イタリアにもたらされたものだ。
19世紀後半、フランスは普仏戦争などでバレエは衰退した。バレエの中心はロシアに移っていった。
この時代、バレリーナは貧しくて裕福な男性に囲われていた。オペラ座の会員には、会社社長やジャーナリストなど、地位の高い男性がいて、オペラ座を牛耳っていた。彼らはバレリーナには興味はあってもバレエ自体を見ないこともあった。
黒服の男はバレリーナを品定めするパトロンの男だった。
ドガの視点が未だ、ブルジョアの座席からのものだった。
バレリーナが輝く一瞬。

舞台裏の過酷な現実も描いていた。

空中に浮遊している瞬間で、かつ着地に寸前の瞬間を描いたドガ。寸前の動作であるから、余計に動きを感じ、一瞬を感じさせる。
ブルジョアジーによって、仮定が作り上げられた。男は外の仕事、女は家庭の仕事という分担が出来た。豊かさにより分業が進んだ。それ以前は、男も女も外に出て働いた。女性の労働はきついものだった。
ドガは、社会のヒエラルキーを描いた。
ダンサーのこの瞬間をバレエの本質として描いている。

キャプシーヌ大通り
ドガにとって記念すべき場所。ドガは印象派のリーダーだった。
眼病に襲われたドガ。視力が落ちた。36歳の時、右目の異変に気がついた。普仏戦争の身体検査で気がついた。
父が借金を残し他界。弟は自殺。ドガは夜の街を徘徊した。眼病のため、明るい太陽の下では活動できなかった。

ドガの新たな表現方法、それはパステル。視力が衰えても色彩を表現できた。油絵の具のチューブ入りにより、油絵全盛のときにパステル画に挑戦した。
現在もあるパステルの工房。創業は1720年だ。
ドガは、40代半ばには大半の絵がパステルだった。柔らかい線と色。女性の肌の透明感を出すのには最適だ。

さらに新しい手法を編み出す。そのころ流行りだした「カメラ」だ。写真だ。光の効果。カメラは画家たちにとって脅威だったが、ドガはそれを利用した。被写体の組み合わせ。カメラで写真を撮ることにより、あらゆるバレリーナの姿態を描いたドガ。

照明、特にフットライトの使い方が素晴らしい。
晩年は作品をほとんど書くことのなかったドガ。癇癪を起こして訪れる人を追い返した。

1914年、ドガは亡くなった。
ドガの死後、驚くべき発見があった。夥しい彫刻だった。バレリーナの彫刻だった。

「14歳の小さな踊り子」

年端もいかない痩せた少女。本物の毛が貼り付けられている。コルセットとチュチュも着けている。前代未聞の彫刻だ。常識では考えられない。
作品は酷評された。汚らわしい、ポルノだ。見る者の神経を逆なでする作品だ。
モデルは誰か?
膨大なデッサン帳から見つけ出した。マリーだ。モンマルトルに住んでいた。当時、モンマルトルは高級住宅街だったが、移民の多い貧民街でもあった。マリーはベルギーからの移民で、モンマルトルでも最も貧しい家庭に育った。1882年に、マリーの記録もなくなった。

14歳の意志を感じる。直向きさ。意志がはっきりしている。彼女が持っている人間の本質の部分、それをドガは現した。その意味で、これは名作だ。冷静sが合ったからこそ、14歳の意志に気がついたのだ。
浮かび上がった人間存在の意志。それを発見したときの喜び。

女とかいう、性別の対象を越えた人間としての印象。それが見る者を感動させるのだ。


2010.10.10








Appendix

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加藤文太郎

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